川崎医大を後にして…

妻の弘子が亡くなって知らない間に5日も経っていました。昼過ぎに帰っていた息子が大阪に戻り、また一人の生活が始まりました。何も変わっていないのですが、部屋には女房の遺影とお骨が…やはり何だか寂しさを覚えます。少し日記で報告を…とおもい、書き始めてみましたが、あまりにも書くことが多く、少しづつ書いていこうと思います。
11日水曜日に通夜、12日の木曜に葬儀を行いましたが、本当に小さな家族葬…でもその前に亡くなった10日のことを書かねばなりません。
午前7時過ぎに川崎医大から電話「奥さんの呼吸が止まりました、直ぐ来てください」、そして病院へ到着したのが9時過ぎ、間に合いませんでした。そしてそれから医師が確認して午前9時6分永眠となりました。すでに前日から容態が悪く覚悟していましたので、部屋に2人少しの時間を…まだ頬には温もりが残っていました。近ぢか転院が進んでいましたが、私は最後は6年間お世話していただいた川崎医大の13階東病棟での最後を望んでおりましたので、女房には「よかったね」といいました。転院して2〜3日で無くなればただの患者の死ですが、ここは皆が…その後覚悟をしていて始めは冷静だった私は号泣することになってしまいました。
6年間ずっと過ごしてくれた婦長が号泣き、看護師さんたち16人全員も…彼女たちは慣れているはずなのですが、涙を流しながら。担当してくれた3人の先生たちも揃ってくれています。そして何と婦長の計らいでしょう、安置所で全員で拝んでくれ寝台車が出るまで泣きながら見送ってくれたのです。先生の1人も涙を流して…最後のお別れで車が出るときに私が皆さんにご挨拶をしたのですが…皆さんの涙を見て言葉が出なくなり、恥ずかしながら号泣してしまいました。こんなに皆に大切にしていただき、見送っていただき…ただ「妻は幸せです、有難う有難う」しか言えませんでした。そして一番最後に「妻は今日逝きましたが、今皆さんに送っていただき喜んでいますよ、最高の病院で最高の治療を受け、最高の先生や看護婦さんにお世話になり、何も思い残すことはありません、ただ有難うと言いたいです」
6年間の間ここで完治して他の病院へ移り、そこで重篤な状態になり川崎へ緊急入院、そしてよくなってまた転院すると重篤な…その繰り返しでした。3度も4度も命を救ってくれた川崎医大に別れを告げました。